歴史を知れば理由が見えてくる!日本人はなぜ、パンを食べるようになったのか
現代では、日本人が食事でパンを食べることは別段珍しくもない光景ですが、
2000年以上ある歴史の中で日本人が日常的にパンを食べ始めたのは、戦後に入ってからのことです。
日本人はそれまでの歴史上食していなかったパンを日常的に食べるようになりました。
これは日本人の食生活の歴史上、特筆すべき出来事です。
この急激な変化はいかにして起こったのか。
今回のその裏側に迫ってみます。
歴史を知れば理由が見えてくる!日本人はなぜ、パンを食べるようになったのか
日本の食は戦後に大きく変わった
今回の記事では、日本人がいかにしてパンを食べるようになったのかを、歴史を振り返りながら紹介していきたいと思います。
日本の食生活は太平洋戦争を機に、大きく変わります。
その中心となったのが、主食の変化でした。
それまでは主食といえばお米が当たり前でしたが、そこにパンやパスタなどの小麦製品が入り込むようになります。
他にも肉や卵、牛乳といった食の欧米化も伴ってくるのですが、
主食として何を食べるかによっておかずは影響を受けるので、
この変化はすべて主食に小麦が入り込むことによって起きたと言えます。
たとえば、朝食にパンを食べようと思った時に、あなたはおかずに何を選びますか?
バターを塗ったトーストによく合うものといえば、
ベーコンエッグ、ソーセージ、スクランブルエッグ、サラダ、牛乳、ヨーグルト、チーズなどですよね。
トーストには焼き魚も、納豆も、味噌汁も、おひたしも漬物も緑茶も合わないのです。
このように、主食がパンに変わったことが中心となり、他の食品にまで変化が連動的に起きていきます。
肉を11倍、乳製品を23倍食べるようになった
農林水産省発表のデータでは、1960年代と2000年代とでは米の消費量が半分にまで減っています。
しかし、その一方で消費量が飛躍的に増えている食品があります。
次のデータは、戦前の昭和初期と戦後の昭和58年を比較したものです。
・肉類・・・11倍に増加
・卵・・・6倍に増加
・牛乳、乳製品・・・23倍に増加
・油脂類・・・20倍に増加
このように、特定の食品の消費量がものすごい勢いで増えているのがわかります。
世界史で見ても、わずか数十年でこれほど急激に食生活が変わった例はないでしょう。
それほど日本の食生活の変化は劇的でした。
では、いよいよその変化を生み出した原因となるパン食の歴史に話を移しましょう。
食糧大国アメリカの大胆な小麦戦略
現在、日本の小麦の自給率は10%以下で、そのほとんどを輸入に頼っています。
世界の中で見ると、第四位の小麦輸入国(FAOSTAT 2007年より)で、輸入先の半分以上がアメリカです。
今でも日本が小麦の大部分を輸入しているのがアメリカ。
日本にパンが広まったのは、このアメリカの影響が大きいのです。
アメリカを除く世界中で食糧が不足していた
アメリカは第二次世界大戦中、ほとんど本土攻撃を受けることなかったため、
戦争中も国内の農業は安定して成長することができました。
一方で、ヨーロッパでは激しい戦禍に見舞われ、食糧不足が起きていました。
アジアも同様で、それによって深刻な食糧不足があり、世界的に大きな食糧の需要が生まれていました。
その需要を満たしたのがアメリカです。
世界中で食糧が必要になっている中、アメリカはその需要に応えるために国をあげて農業の大規模化、機械化、効率化を進めました。
その結果、アメリカは膨大な食糧の需要に応えることに成功し、アメリカが世界の食糧難を救っていったのです。
状況が一転し、逆に食糧余りの状態に・・・
しかし、1945年に戦争が終わると状況は一変します。
アジアでは戦いが終わったことにより、兵士たちの食糧が必要なくなりました。
一方、ヨーロッパでも農業が復興し、アメリカに頼らずとも自国で食糧がまかなえるように回復したのです。
これにより、アメリカは困ります。
それまで多額に資金を投資し、大量の農産物を作って輸出していましたが、
突如それまであった需要がすっぽり消滅してしまったのです。
このままではアメリカは大量の小麦をはじめとする農産物の在庫を抱えることになり、国内の農業に大打撃を与えてしまします。
さらに悪いことには、麦は米のように保存性が高くないため、アメリカにとっては火急の問題でした。
アメリカ起死回生の奇策
そんなアメリカの頭を悩ませる問題がもう一つありました。
ロシアとの冷戦です。
共産圏勢力に対抗するため、アメリカは味方の陣営を増やす必要がありました。
そんな中、アメリカはこの食糧余り問題とロシア冷戦の二つの問題を一挙に解決できる”とっておきの秘策”を思いつきます。
それが、「MSA法」と呼ばれる施策です。
この法案の内容を一言で言うと、相手国に食糧の援助をする代わりに、軍備の増強を迫るというもの。
アメリカとしては、ロシアに対抗できるよう、味方国を増やし、その国の軍事力を強化したいという狙いがあったので、
「食糧を援助するから軍事力を強化してね」と迫っていったのです。
まさに、食糧余りを解消しつつ、味方陣営を獲得できるという起死回生の秘策でした。
アメリカから出された食糧支援の条件とは
その後、MSA法は「PL480法案」と名前を変えます。
この法案の要点をまとめると、以下のようになります。
①アメリカの農産物を代金後払いで購入できる
②購入した農産物をその国の民間に売却したお金の一部は、アメリカと協議の上、復興に使える
③民間に売ってできたお金の一部は、アメリカがその国でのアメリカの農産物の宣伝、市場開拓費として使える
④学校給食への農産物を無償提供する
これを見ると、相手国にとってかなり有利な、オイシイ条件であることがわかります。
特に、①のお金がなくても食糧を売ってくれるというのは、
当時、終戦直後でお金も食糧もなくジリ貧だった国(日本も含めて)にとってはこの上なく魅力的な条件でした。
これだけ良い条件を用意したということから、
アメリカの「在庫になっている農産物をとにかく早くさばきたい」という意図が見えます。
日本はこのPL480法案を承認し、
自衛隊を作ることと引き換えに、アメリカから小麦や大豆などの大量の食糧を獲得します。
そしてこの政策が、後の日本の食生活の大変遷のすべてのひきがねとなります。
果たして、そうなることを当時の政府関係者や農業関係者は予想していたのでしょうか…。
全国に小麦の食べ方を教えて回ったキッチンカー
もう一つ、さらにアメリカの小麦戦略を推し進めたものが「キッチンカー」の存在です。
キッチンカーとは、調理施設のついた車で街を回り、各地で主婦を相手に料理の実演を行うための車です。
当時はまだ一般市民が欧米の料理の作り方を知らなかったので、実際に見せて直接料理のやり方を教えて回ることにしたのです。
このキッチンカーは1956年から5年間で全国2万会場、総勢スタッフ200万人を動員するという大規模なキャンペーンでした。
しかし、実は陰ではアメリカが糸を引いていたようです。
このキャンペーンの資金の1億数千万円はアメリカから提供されています。
さらには、資金を提供するかわりに、キッチンカーの料理実演で取り上げる料理には一定の条件が義務付けられていました。
その条件が、「食材に必ず小麦と大豆を使うこと」です。
アメリカとしては余って困っている食糧を使えるうえに、欧米料理が広まればその後の需要も安定して発生するというメリットがありました。
そしてその思惑通り、今でも日本は毎年大量の小麦と大豆をアメリカから輸入し続けています。
パンを作れる日本人を育成する
これだけではありません。
もう一つ、アメリカが関わっていたキャンペーンがあります。
それが、「製パン業者技術講習会事業」です。
これは日本人にパンの作り方を教えてパン職人を育成することを目的として事業で、
初年度だけで全国200会場で実施され、1万人のパン職人が輩出されました。
これにも約4000万円の費用がかけられています。
翌年にはさらに約7000万円の資金を投入し、全国でパン祭りキャンペーンを実施。
新聞、テレビ、ラジオ、宣伝カー、セスナ機まで動員してPR活動を進めました。
これらのキャンペーンにより、「パンを食べる」という文化が日本全国民に認知され、食の欧米化に一気に弾みがつくことになります。
牛乳とパンがない給食は給食じゃない
そして食の欧米化を語る上で忘れてはならない、一番影響を色濃く残したものがあります。
それが、学校給食への介入です。
1947年1月に学校給食がスタートした当時、日本は終戦直後で未曾有の食糧難に見舞われていて、学童たちも栄養失調の状態でした。
その様子を見た国連機関の代表者が、GHQのマッカーサーに速やかに学校給食を実施することを勧めます。
これがきっかけとなり、学校給食実施に向けてGHQと日本側が動き出します。
ボランティア団体の援助もあり、日本で学校給食がスタート。
学校給食は順調に運営され、子供たちも助かって父兄にも好評でした。
最初は都市部でしか実施されていなかったのですが、「この素晴らしい給食を全国の小学校に普及させよう」という流れになります。
その提案を日本がGHQにした時の返答は
「日本政府が今後ともこの完全給食を強力に推進する確約をしなければ許可しがたい」
というものでした。
この「完全給食」の定義がポイントです。
このとき決められた「完全給食」の定義は、
小麦を使ったパン食や脱脂粉乳を使ったミルク給食というものでした。
つまり、全国で給食を実施する代わりに、今後の給食に関してはパンや脱脂粉乳を使うことを迫り、確約させたわけです。
パンを食べた子どもが親になり、子どもにパンを食べさせる
この通達が出たのは1950年で、日本は翌年のサンフランシスコ講和条約により再び独立国としての地位を得ました。
そうなるとGHQも日本から引き上げなければならなくなります。
ということは、せっかく始めた学校給食に対するアメリカの影響力もなくなってしまいます。
アメリカが去った後、日本人は給食を独自のものに変えるのではないかという疑念がアメリカにはあったのでしょう。
たとえば給食にお米を使い始めたりして小麦の需要が減るかもしれない。
せっかくパンを食べることを覚え始めた日本人に対して影響力を残したい。
しかも今後戦争から復興し、人口が伸びる余地が多いにある国の食糧事情はなんとしても握っておきたい。
大量の農産物を抱えるアメリカがそう考えたことは想像に難くありません。
結局日本はこの通達を承諾し、これによりその後の日本のパンと牛乳の給食が決定的なものとなります。
その後、子どもの頃からパンを食べる習慣が身に付いた子どもたちは大人になってもパンを食べ、
自分の子どもにもパンを与えていき、世代を越えてパン食が日本全国に定着していったのです。
今こそ日本の給食の見直しを
日本の食が急速に欧米化した背景には、これまで見てきたような歴史的事実がありました。
一応伝えておきたのですが、
ここまで読むと、なんだかアメリカが悪者のように写るかもしれませんが、そう決めつけてしまうのは乱暴です。
たしかに当時のアメリカは食糧が余っていてそれをさばきたいという思惑はあったでしょうが、
実際日本も食糧に困っていたのは事実です。
当時栄養失調だった日本の子供たちに食糧が行き渡り、餓死を減らせたのは紛れもなくアメリカのおかげなのです。
問題なのは、経済復興がはじまり、食糧難が解消された後でも慣例としてパンと牛乳の給食が行われていたことです。
この時点で日本は給食からパンを除き、完全米飯給食に切り替えるべきだったと思います。
子どもにとって給食は食育の教材であり、食育の目的の一つは自国の食文化を学ぶことです。
日本の食文化の歴史にパンはないのです。パンは給食以外で食べれば良いのです。
日本の食文化は、お米が基本です。
このことを子どもの頃に徹底的に教えておかないといけません。
お米が日本人にとってどういう食べ物かをしっかり教えておけば、糖質制限でごはんを食べないなどというちぐはぐな食事法が流行ることもないのです。
今これだけ生活習慣病が蔓延している現状も急激な食の欧米化が関係していることは間違いありません。
今こそ、行き過ぎた食の欧米化を受け止め、
私たち日本人が長年かけて完成させた伝統的な日本食の良さを反映させた本格的な給食の見直しが迫られているのではないでしょうか。
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