圓尾和紀のこれまで
このページをご覧いただき、ありがとうございます。
僕がどんな考えで今フリーランスで管理栄養士の仕事をしているのかを知っていただけたらと思い、
これまでの歩みをまとめることにしました。
最後までお読みいただけると嬉しいです。
これまでの歩み
1、栄養学部を目指すまで
僕は昭和61年に兵庫県の神戸市で、神戸生まれ神戸育ちの両親の元に生まれました。
「圓尾」という名字は珍しく、同じ兵庫県の龍野という場所にしかない名前だそうです。
いろいろ調べてみると、先祖は武士だったようで、そこから醤油業を始め、淡口醤油を発明したそうです。
というわけで、僕の先祖は醤油職人をしていました。
僕は子どもの頃から「将来こうなりたい」という夢はまったくなく、
将来の夢について書くという授業のときは、隣の友達が書いていた「レスキュー隊」という夢をマネして書いていたほどです。
大学に進学するときもやりたいことが見つからず、ギリギリまで決まりませんでした。
なんとなく化学や生物が好きだったので、薬学部がいいのではないかと考えるようになりました。
薬剤師という資格を持って働くことが経済的にも安定してそうだし、自分専門分野を持って働くことに対する憧れもありました。
どの大学にしようかパンフレットを取り寄せてパラパラ見ているときに偶然「栄養学部」というページが目に留まります。
「食べ物の中に隠されている化学。そして人体の構造についても学べるのか」
そんな思いから急遽志望を栄養学部に変更。
高校3年生の11月のことでした。
2、大学入学から留学、大学院へ
なんとか地元の栄養学部のある大学に合格。
入学式に行ってみると、栄養学部は女の子ばかり。
「来る学部を間違えたか?!」と思いました。
それぐらい何も調べずに入ってしまいました。
栄養学について学ぶことは面白かったのですが、逆にいうと栄養学以外のことを学ぶ機会は少なく、「このまま大人になって就職してしまっていいのか?」という漠然とした不安が沸きます。
そこで目をつけたのが留学です。
大学が備えていた制度を使ってイギリスに一年間留学して向こうで栄養学を学ぶことにしました。
栄養学部は所定のカリキュラムを修了しないと卒業できないため、海外に行っている一年は休学とみなされ、一年余分に大学に通う必要があり、これまで栄養学部で留学した先輩はいなかったそうです。
イギリスでの留学生活は最高に楽しく、僕の人生を大きく変えました。
世界中から学生が集まっており、いろんな国の人と交流することができたのです。
海外の学生はとても意識が高く、触発されて「僕も高みを目指そう!」と思い、帰国後は大学院への進学を決意。
日本の歴史を知ろうと司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を読んで影響を受けました。
大学の卒業アルバムの個人の一言には「この世に生を得るは事を成すにあり」という坂本龍馬の言葉を記していました。
3、栄養士の道を諦める覚悟をする
大学院は神戸を離れ、静岡へ。
「糖尿病腎症と低たんぱく食」について動物実験で研究をしたのですが、結果的に研究は向いていませんでした。
実験室にこもってコツコツ結果を積み上げていくよりも、直接人に関わってその人の役に立ちたいと思うように。
就職活動を始めて、ある就活セミナーでITベンチャー企業に出会います。
これは衝撃的な出会いでした。
僕はその企業の考え方に触れることで、働くことに対する意識がまったく変わり、その企業自体にも強く惹かれることになります。
ITというこれまで自分がやってきた栄養学とはかけ離れた分野でしたが、どうしても自分の思いが抑えきれず、とりあえずダメ元で選考を受けてみることに。
超人気の企業で、倍率は1000倍でしたが、奇跡的に受かることができました。
それが大学院一年生の終わり頃だったのですが、そこからはインターン生として働きました。
企業は東京にあったので、それからは一週間に3日間、朝7時の新幹線に乗って東京へ行き、終電で静岡に帰り、インターンがない日は大学で研究をするという日々を送りました。
研究発表を終え、満を持して東京へ引っ越し、本格的に入社を待ちながらインターンとして働いていたのですが、入社式の一週間前に内定が取り消しになるという事態が発生します。
人生のどん底を味わいました。
4、病院への就職から独立まで
無職になった僕は東京の家を引き払い、実家のある神戸に帰りました。
一ヶ月間は何もする気が起きませんでしたが、このまま何もしないわけにはいかないので、少しずつ就活を始めます。
でも、僕は東京が大好きで(あの刺激的な街!)、東京に住むことの憧れを抑えきれませんでした。
そんな時、静岡時代の友達から連絡をもらい、事情を話したら「うちに居候しながら就活したら?」という申し出をいただきます。
僕はその言葉に甘えることにし、友達の家を拠点に一ヶ月間就活をして非常勤ではありましたが、都内の病院に就職することができました。
病院での仕事は大変なこともたくさんありましたが、これまえ学んできたことを現場で活かして患者さんの役に立つということに大きな充実感を感じ、毎日楽しく仕事をしていました。
職場環境も良く、人間関係も良好、勤務時間も定時で上がれて土日は休み。
何ひとつ不満のない生活を送る中で「あれ?そもそも僕はなんで東京に出てきたんだっけ?」と得も言われぬ不安を感じるようになりました。
そこで当時主流だったSNSのmixiを使っておもしろそうな生き方をしている人にメッセージを送って、会って話を聞いてみることにしました。
その方の紹介などで経営者の方や自営業の方と多く接するようになります。
最初は別世界だったそんな人たちですが、一緒に時間を過ごす中で少しずつ「自分も自由に仕事をしたい!」と思うように。
病院で働き、日々生活習慣病の患者さんと接する中で「食育」「未病」の必要性を感じていたこともあり、独立して自分の好きなやり方でそういったことを伝えていけたらという思いも強くなっていました。
そして2013年の3月に病院をやめ(非常勤の病院から別の病院に正規職員で転職していた)、4月からフリーランスとしてのスタートを切りました。
僕が最初の病院に就職してから約1年半後のことでした。
5、独立してから軸を見つけるまで
いま思えばなんとも無謀な独立でした。
自分の中でやりたいこともなんとなくしか決まっていませんでしたし、経済的にも本当にギリギリの生活をしていました。
しかし、そんな中で徐々に「ファスティング」と「伝統食」という今の軸になるものが固まってきます。
それぞれ簡単に触れておくと、まずファスティングについては山田豊文先生の「脳がよみがえる断食力」という本を読んだのがきっかけです。
ある栄養学のセミナーでプレゼントでもらったこの本、僕は当時まったく興味がなく、本棚に一年ほどほったらかしにしていました。
あるときに部屋の掃除をしていて、ホコリをかぶっていたこの本を見つけ、暇つぶしがてら読んでみたらどんどん引き込まれ、ファスティングをやってみたい!と思い、知り合いの先生にサポートをお願いしてやってみました。
「これは食生活を改善するきっかけになる!」僕はそう確信しました。
病気になる前から食事を変えましょうと言ったところで、実際に変えるのは大変です。
ファスティングだと、自然とそれができるようになることに気づきました。
続いて伝統食のほうですが、ずっと「健康的な食事とは一体どんな食事なんだ?」と考え続け、あらゆる食事法を学んで検討してきて、最終的に行き着いた結論が「もっとも健康的な食事とは、その民族が長年食べてきた伝統食だ」という考えです。
普段は伝統食を基本とした食事(和ごはん)で、定期的にファスティングをする。
これが今も僕が持っている健康的な食生活の方程式です。
6、これから
僕がいまやりたいことは、「食で世の中を豊かにする」ことです。
「豊か」とは、身体が健康であることはもちろん、心が健康であり、ゆとりをもって日々の生活の中に幸せを見いだせるようになることだと思います。
そして人間だけでなく、美しくかけがえのない地球を守っていくこと、自然と共生することです。
日本人がもっと伝統食を大切にし、日常の中に伝統食を復活させることでこれが可能になります。
もうひとつのやりたいことが「栄養士をカッコいい仕事にする」ことです。
栄養士は非常に価値のある存在なのですが、今の世の中ではその価値がまだまだ評価されていません。
僕はそんな栄養士のイメージを変え、より栄養士が活躍できる社会を作っていきたいと考えています。
それも結果的に「食で世の中を豊かにする」ことにつながっていくはずです。
さて、長々とこれまでの歩みを書いてきましたが、まだまだ途上にいますし、僕はこれからももっともっと成長していろんなことをやっていきます。
そんな道を皆さんと、そしてこのブログとともに歩めたらと思っておりますので、これからも応援のほどよろしくお願いいたします。